皆様からの相談の中で多くの方々に参考になりそうな事例を住職の独断で例示することにしました。
公表の責任は全て住職今岡達雄個人にあります。ご了承下さい。
戒名について教えてください。先日戒名は生前に付けていただくのが普通とききましたが、その際自分のお墓のあるお寺でないと戒名を作って 別なお寺には、お墓が入れないとききました。生前戒名を作った場合は、霊園でないと難しいといわれましたがどうなのでしょうか? 教えてください。
戒名は、戒を守ることを約束したときに付けてもらえる漢字2文字のお名前です。
戒には次のようなものがあります。
(1)生きものを殺さない(不殺生戒)
(2)盗まない(不偸盗戒)、
(3)淫らなことをしない(不邪淫戒)
(4)嘘をつかない(不妄語戒)
(5)酒を飲まない(不飲酒戒)
誤解の第1は「戒名」と「法名」の違いです。
「戒名」はあくまでも漢字2文字です。お葬式に時に見られるのは「法名」です。
法名は○○信士、□□○○信士、△△院□□○○居士などで、○○を戒名、□□を道号、△△を院号、居士や信士を位号と呼び、戒名は戒を授かった時の名前、道号は生前の性格や趣味を現す漢字2文字、院号は△△院という寺を一軒建てるに相当する宗教的な功績、位号は信仰心の篤さを示すものです。
そこで、戒名は大本山のような寺で授戒会に参加して2文字を頂くことができますが、法名とは寺院に対する功績と深く関連していますので、菩提寺から頂くことになります。そこで、生前戒名の場合でも師となる菩提寺の住職と相談して戒名や法名を付けることになります。
さて、菩提寺住職と円満なる関係にあるときには、このシステムは上手く作動しますが、菩提寺住職との信頼関係が希薄であったり、上手い関係が築けていない場合に問題が起きます。
生前戒名・法名授与に消極的であったり、他の僧侶が付けた戒名・法名を尊重しない場合があります。
私に寺では、戒名・法名は寺から授けるべきものとして、戒名料という名目の布施を頂いておりません。しかし、巷では戒名料という名の布施が厳然として存在しており、寺院収入に一角を形成していることも事実です。他の僧侶によって戒名・法名授与が行われた場合には、自分の寺の墓地に受け入れなかったり、あるいは戒名・法名を付け直してから受け入れるというようなことが行われているようです。誠に嘆かわしいことです。
ですから、生前から信頼できる寺・僧侶を見つけておくことが第一と考えます。
お寺のお布施というのは、弁護士に報酬規定があるように、各宗派で葬式の場合とか項目毎に上限と下限がおおよそ規定されているのでしょうか?
それとも、宗派を超えて寺院の組合?みたいなのがあって規定があるのでしょうか?
それとも、全くお寺毎に金額を設定しているのでしょうか?
(実情)
産業社会に於いては、人間の全ての行為を金額に換算し企業化・産業化する傾向があります。坊主の行為も、このような傾向を免れるわけにはいきません。布施は葬儀・法事にお経を唱えるという行為に対する対価として考えられるようになってきました。お経の商用化です。こうなると受けの良い坊主(瀬戸内寂聴のような)は人気投票の結果として高額の布施を受け取ることになります。坊主のタレント化です。稼ぎの良い坊主と良くない坊主が出てきますからこれは大変であります。定価をもうけて収入を確保しようとする坊主達も出てきます。日本国内の仏教を統括する全日本仏教会や天台・真言・浄土・日蓮宗など各宗派で「布施の標準」を決めているとことはありません。しかし、近隣寺院で構成される仏教会(寺院組合みたいなもの)で標準的な布施金額を決めているところは各所に見られます。存在しないようで、有るところには有るというところです。
(その原因)
多くの寺院は広い土地や大きな建物を所有していますが、これを維持するには結構お金がかかります。庭や墓地の草取り、植木の手入れ、伽藍の修理などです。昔は農業の合間に近所の檀家さん達が草取りをしたり、井戸の掃除をしたり、植木の手入れや草花の植え替えをしてくださいました。台風が来るといえば板を張ったり、物を動かしたり、畳を上げたり、後かたづけしたしてくれました。これが「布施」です。お金ではないが大変助かっていたのです。産業化が進行し、昨今では皆様会社に勤めておられ、このような「布施」はできない環境になってしまいました。そこで「お金による布施」に変わってきたのです。
米、みそ、醤油は葬式に本尊への供物として納められるものの代表でした。これらが坊主の生活を支えていました。寺の周囲のほとんどの人々は農業を行っていましたから、その一部を寺への布施として納めていました。最近は農業をしている方はほとんどおりません。物の替わりに「金銭」を納めるようになってきました。
ここ50年、産業化の進展とともに日本国中の生活スタイルが変わりました。寺や坊主は檀家の皆様からの労働奉仕や収穫物の物納によって支えられていたのですが、これが全て「金銭による布施」に変わってきたのです。
(坊主の希望)
現代社会は必要な物やサービスを金銭を対価として購入する社会です。寺も坊主もこの社会環境から外れるわけにはいきません。寺を維持し坊主が生きていくために「金銭」が必要で、これを「布施」という形式で受け取るのが一般的な方法です。ですから、お布施を下さい。
(標準的金額)
寺の大きさ、坊主および家族の人数によって必要な金額が算出されます。寺の大きさは檀家数です。寺院経営上最小ユニットは檀家数250軒だと考えます。300必要とする意見もありますが、私は250が最低線と思います。これより檀家数が少ない寺院の檀家さんは、坊さんから丁寧なサービスを受けることが出来ますがコストは高くつきます。一方、檀家数がこれより多い寺院では、コストは幾分安くなりますがサービスの質が低下します。 つまり、檀家数が多いと檀家さんの希望の日時に法事をお願いしても、既に予約が入っている場合が多くなります。また、30分ごとのスケジュールで法事がああったら落ち着いて法話を聞くことも出来ません。これに対して檀家数が少ない寺では、法事の予約はいつでもOK、法事も法話もたっぷりと聞くことが出来ます。
▲コスト
多いか少ないかは皆様方の評価ですが、1000坪で標準伽藍の寺では、寺の運営維持費に600万円、坊主の世帯収入600万円、高額修理積み立て600万円で最低1800万円の収入が必要です。これを、葬儀、法事、定例法要時の布施によってまかなうわけです。
○布施
-葬儀の布施は年収の12分の1
平均の年間葬儀数は檀家数×5%です。250×0.05=12.5ですから年間12~13件の葬儀になります。そこで、葬家の皆様のそれぞれの年収の12分の1を布施していただくと、これを12倍した金額は檀家様の平均年収になります。
-法事の布施は葬儀の布施の10分の1
法事は一霊につき10回(初七日、49日、百ヶ日、1周忌、3回忌、7回忌・・・)程度です。年間法事件数は毎年12件の葬儀があったと仮定すると12霊×10=120(毎日曜日に2件位に相当します)。法事の布施として葬儀の布施の10分の1をいただくと、檀家の皆様の平均年収になります。
-定例行事には法事の10分の1
その他、定例行事が(春彼岸、お盆、施餓鬼、秋彼岸、十夜、歳暮)があります。全檀参加が原則ですが平均出席率8割で200×6回=延べ1200件。法事の10分の1
をいただくと檀家の皆様の平均年収になります。
□つまり
平均年収600万円のサラリーマンは、葬儀の時に50万円、法事の時には5万円、定例行事に5千円のお布施を包むことになります。自分の年収を基準にして考えればよいということになります。最近、年会費制の寺院も出てきたようです。総コストを檀家数で割った値が平均会費です。1800万円を250件で割ると年間7万2千円、月払いにすると6000円です。毎月6千円の会費を納めると葬儀も法事も無料でできます。
毎月布施するか、あるいは、誰かが亡くなったときまとめて布施するかどちらを選びますか。
自分のお寺と喧嘩したり、気に入らないので、別のお寺に替えたいのに代えれないという不満もたまに聞く話です。贔屓にしてる店や、病院を代えるようにはいかないのです。
自分のお寺のご機嫌を損ねると、自分が死んでも葬式をしてもらえないと思い檀家は遠慮がちになるのではないでしょうか。
(公式見解)
檀家制度は江戸時代に作られたもので、人々を土地に固定するため、つまり人々の流動性を奪うための手段でした。現在社会は人々の流動性は自由でありますし、信教の自由もあり、寺を代えることは全く自由なことです。
(実情)
そうはいっても簡単に寺は代えられません。寺との付き合いは檀家の当主あるいは妻が中心になっていますが、実は背後には複雑な縁戚関係がついて回ります。関係者の誰かが反対するとスムースには進まないものです。ですからたいていの場合、檀家寺を代えて新しい寺院とつき合うにはかなりの労力を覚悟しなければなりません。
つぎに、寺に墓地がある場合にはさらに複雑になります。少数に家族のみ納骨されている場合には比較的簡単ですがそれでも墓の移設費用は馬鹿になりません。新規に建てるのもかなりの金額になります。古からの墓地の場合には、あなたの知っている家族だけでなくその他の多くの霊が埋葬されていることがあります。その整理が必要ですから、労力も費用も必要となります。
このようなことを考えると寺を代えるのは大変なことなのです。
(代えたらいいよ)
公的な霊園に墓地がある場合には、寺を代えるのに大きな制約はありません。それよりも、気に入った寺院を探す方が大変な作業になるでしょう。でも気に入った寺や気に入った坊主が見つかったら、今までつき合っていた寺や坊主を止めてしまうのも良いと思います。私自身感じていることで、出来る範囲で指導しているのですが、どうしようもない坊主や寺院が存在することは確かです。寺院は、ひとつひとつが独立した宗教法人ですから、同じ宗派の坊主であっても運営方針の変えさせることは出来ません。上部団体、例えば浄土宗でも運営方針を変えさせることは出来ません。浄土宗で認めない方針の運営を行っている寺に対し、それを通告し指導することは出来ますが、先方寺院が「浄土宗やーめた、あしたから浄土本宗をはじめます」といったらそれでおしまいなのです。
ですから、どうしようもない坊主や寺院は、寺を代えるという行為によって皆様方から告発していただくしかないのです。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、本当にどんな人でも罪が許されるのでしょうか。
仏様はお念仏を唱えることについてなんと言っていらっしゃるのでしょうか。
(1) お釈迦様と仏教
仏教はお釈迦様がお開きになった宗教で、佛になる(=さとる、悟りを開く)ことを目標にしています。お釈迦様は修行して悟りを得、仏様に成られました。 お釈迦様は多くの人々が悟りを得られるよう(=佛になれるよう)に、悟りの内容(教典)と生活規範(戒律)をお示しになりました。
仏教徒とはお釈迦様の存在を信じ、自分自身も悟りを得ることを目指す人々です。
(2)自力と他力
お釈迦様の死後、お釈迦様の示した悟りの内容(教典)を勉強し、提示された生活規範(戒律)に従って悟りを得ることが試みられました。これが「自力」による成仏(悟りを得る)の方法です。しかし、それは大変困難なもので多くに人々が出来ることではありませんでした。
そこで、お釈迦様のお話の中からもう一つの道が探し出されました。それは、既に悟りを得た人(=佛)の力に助けられて悟りを得る方法です。自分の力ではなく、佛の力で悟らせていただきますので「他力」といわれます。
(3)他力とは阿弥陀仏の力
阿弥陀仏は仏になるとき誓い(誓願とか本願といいます)を立てました。48あるのですが、その18番目に「もしわれ佛を得たらむに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜむと欲して、乃至十念せむに、もし生ぜずば正覚をとらじ」と誓っています。
「心底から極楽浄土(阿弥陀様の国=我が国)に行きたいと思って、十回の念仏を申すものがいたらかならず極楽に迎える、このことが出来るようになってからはじめて私自身が佛(正覚=さとりを得る)になることができる」
これが、南無阿弥陀仏を申す理論的な根拠です。現実の世の中はつらく、厳しく、私どものような弱い人間は悟れません。そこで、阿弥陀様の極楽浄土に連れて行ってもらって、そこで修行して悟り佛になるのです。
(4)念仏を唱える
お念仏では南無阿弥陀仏と申します。南無とは「お助け下さい(ナーモ)」という意味です。阿弥陀仏とは「計り知れない(アミータ)寿命(アーユス)と光(アーバ)に満ちた仏様(ブッダ)」という意味です。(カタカナは古代インド語表現) つまり阿弥陀様おたすけ下さいと言っているわけです。何度も何度も繰り返してお願いをするわけです。それは自分自身が苦しいから、自分自身がどうにも成らない弱い人間であるからです。
仏教には戒律があります。不殺生戒(ころさない)、不偸盗戒(ぬすまない)、不妄語戒(うそをつかない)、不邪淫戒(みだらなことをしない)、不飲酒戒(じぶんをうしなわない)が基本的戒です。しかし、これ さえも守ることが出来ません。不殺生戒(ころさない)を犯さずに生きていくことが出来ません。食べ物は全て命あるものだからです。 そんな自分を省みて、仏様の前でお助け下さい、お許し下さいとお願いをするのです。それがお念仏です。
(5)念仏で罪は許されるか
私たちは、自分一人で生きていく自信がありませんから、お念仏を申して阿弥陀様に助けられて毎日の生活をしていきます。だからといって、お念仏さえしていれば罪が許される訳ではありません。
例えば、生きていた命を食材として料理して食べます、そして、阿弥陀様に「また、不殺生戒を犯してしまいました。ごめんなさい。南無阿弥陀仏」といって、罪が許されるわけではありません。それは毎日、毎日罪を犯さずにはいられない私どもにとっては、お念仏を申さずにいられないということです。
(6)いつ救われるか
浄土宗(法然)と浄土真宗(親鸞)では解釈が異なります。浄土宗はあくまでも臨終来迎です。私たちは息を引き取るとき阿弥陀様がお迎えにきて極楽浄土で新たな命をいただき、修行して、佛になります。
浄土真宗では、この世で既に救われていると考えます。阿弥陀様に出会い、お念仏を申すことで、もはや必ず極浄土に往生できるのですから、その時点から既に救われていると考えます。
この両者の考え方は日常生活にも微妙な差を生み出します。