ここに書かれている内容は一般的な仏教書の内容とは若干異なるかもしれません。
回答に対する責任は全て住職今岡達雄個人にあります。ご了承下さい
お坊さんへのお布施って、いくら位つつめばいいのでしょうか?
ケース・バイ・ケースで異なります。
第一に、布施という言葉は六波羅密(六つの悟りの方法)の第1に採り挙げられているもので、「人の身になって考える」ということです。僧侶が皆様のニーズを察知し営む法要は法施と言い、皆様が僧侶の身になって金品を施すのが財施という行為です。
第二に財施をしたくても無財(なにも持っていない無い)の人もおりますから、 いくら包みなさいといっても実行不可能なこともあります。仏典には無財の人は、
・捨身施(身を捨てて人のためにつくす)
・心慮施(思いやりの心を持つ)
・和顔施(明るい表情で周囲を和ませる)
・慈眼施(優しい眼差しをする)
・愛語施(さわやかな言葉をかける)
・房舎施(困っている人を向かい入れる)
・床座施(席をゆずる)
なども立派な布施であるとされています。
そこで、布施とは金額に依存せず、疑心暗鬼にならず、自分の出来ること(額)を包めばいいのです。
ところで、お布施の経済学をひとつ。これは梅棹忠夫先生によるお布施理論で、お布施の額は布施をする者と布施を受ける者の関係で決定されるそうです。布施する側に地位が高ければ高額になります、檀家総代は位の低い僧侶にも高額のお布施を必要とします。また、布施を受ける側の身分に依っても額が変わります、立派な僧侶のには高額なお布施が、駆け出しの僧侶にはそれなりのお布施が渡されることになります。
しかし、実際に知りたいのは具体的な金額でしょう。地域にもよりますが東京周辺で私が推奨しているのは、例えば葬儀の時は年収の12分の1(1月の給料+ボーナス/12)、その他の法要の時はその10分の1を目安にしています。食事を差し上げない場合にはお食事代、遠方からお見えに成る場合には交通費としてお車代を包むのが丁寧な方法です。つまり、年収600万円の場合には、葬儀では50万円、法事では5万円のお布施になります。
これは、ひとつの目安でこの通りにする必要は有りません。繰り返しますが布施とは金額に依存せず、疑心暗鬼にならず、自分の出来ること(額)を包めばいいのです。
葬儀の時に戒名料を取られました。戒名とは一体なんですか。必要なものなのでしょうか?
仏教には通常守るべき戒律があります。戒とは倫理的な目標、律とは生活上の 規則です。仏教に帰依する(出家したり、僧侶の弟子になったり、仏様を信仰し たりすること)ときには仏教の多くの宗派(除;浄土真宗)では戒を守ることを 約束します。これを授戒と言います。授戒しますとその証拠に名前がもらえます、 これが戒名です。
したがって、生きている間に戒名を授かるのが本来の主旨です。浄土真宗の場 合には戒名の代わりに法名が授けられます。仏教の基本的な戒は5つあります。
1.不殺生戒(殺さない)
2.不偸盗戒(盗まない)
3.不邪淫戒(淫らなことをしない)
4.不妄語戒(嘘をつかない)
5.不飲酒戒(酒を飲まない)
我々の日常生活を考えてみますとこれらの戒を厳密に守ることは極めて困難な ことでしょう。戒とは罰則のない倫理規定ですから、守れなくとも常に意識し守 ろうとする姿勢を持ち続けることが重要です。私は戒を意識し常に守ろうとする 姿勢を持ち続けますと仏様と約束した象徴として戒名があるのです。
檀信徒の人々に生前に戒名を授けないのは僧侶の怠慢です。少なくともこのよ うなことを檀信徒に知らせる必要があります。したがいまして、私は檀信徒の方 々から戒名料というものをいただいたことは有りません。生前の信仰心に基づき 生前に授けられなかった戒名を、今後は仏様の弟子になるわけですから進んで戒 名を授けることにしております。
ところで、生前の信仰心が判断できない場合にはどうしたら良いでしょうか。 最近は人口流動が激しく、それまで全く縁のなかった人を極楽浄土にお送りしな ければならない場合が発生します。このような場合に、ひとつの判断材料になる のがその時点で表明される信仰のあかし(布施)であります。このような事情に よって戒名料というものが定着してしまったようです。
出来るならばその時だけでなく、近所のお寺さんにお世話になっておくのが良 いと思います。近くにお寺が無かったらバーチャル寺院:善照寺をご利用下さい。
葬儀の時に戒名料を取られました。戒名料の相場はいくら位なのでしょうか?
浄土宗では生前での法名授与を勧めています。
浄土宗では、「五重相伝会」という会で浄土宗の教義について勉強すると、「○誉」という法名の一部(誉号)を授かります。また、「授戒会」という会で戒を守ると約束すると「□□」という2文字の戒を受けたことを示す名前(戒名)を授かります。
したがって「○誉□□」というのが浄土宗の檀信徒の法名になり、これらは原則として「生きている間」に授かるべきものです。
しかし浄土宗の法名にはこれ以外に院号「△△院」、位号「信士、信女、居士、大姉」が付け加わり法名となっており、これらは死後にあたえられるのが大部分です。
この院号や位号は、該当者の寺院に対する功績を表すものです。慧日院というのは、リアル寺院善照寺の院号です。つまり△△院というのは寺院を表します。昔、天皇や将軍、高い位の貴族や武士は自分の寺を建てそこに住み、死後もそこに葬られました。ですから「△△院」とは一寺院を建立する功績に大して与えられる称号でした。現在では、寺院に対する功績(寺院役員の任期、寄付金額等)によって与えられます。
位号は通常の信心の篤さによって授与されます。資産がないと寺院に対する功績は積めませんが、信心の篤さは仏様とのつきあい方に自然に現れます。熱心な信者さんにはそれなりの位号が贈られます。
このように、院号や位号は通常の寺院とのつきあいの中で自ずと明らかになるものであり、お亡くなりになったときに法名として寺院から、それに応じて贈られるものです。そこには、戒名料というような金銭的な関係が入り込む余地は有りません。
ところが、近年になって平生は寺院と関係を持たない方々が、特に大都市や大都市周辺地域に多数お住まいになるようになりました。これまでお付き合いが無かったこのような方々善照寺では一般的な法名を授与し、戒名料もいただかないことにしています。
これで話がすめば簡単ですが、特に強い要望で「院号・居士でお願いします。」と言われた場合に大変な困難が持ち上がります。もとからの檀信徒には「院号・居士」には厳しい基準がありますから、多くは授与しません。ですから、新しくお会いした方にも「院号・居士」を授けることには躊躇します。でもどうしてもというケースでは檀家総代さんの功績と同じ功績を「一時金」として頂く場合も出てくるわけです。これが一人歩きして「戒名料」と呼ばれています。
ですから、戒名料の相場は有りません。しかし、もし高い位が必要ならばお寺を一つ開く程度の信仰心と資金力が必要であることを認識してください。
宗派によって戒名のつけ方はちがうのですか?
また、戒名で宗派がわかりますか?
仏教の戒名は概ね以下のような構成になっています。
XX信士
YYXX信士
ZZ院YYXX居士
XXを戒名、YYを道号、ZZを院号、居士や信士を位号と呼びます。鎌倉時代以 前からあった仏教ではこれが基本でありますが、鎌倉時代に起きた宗教革命(?) 以降の仏教ではそれぞれ特徴を出すようになってきました。字面から見ると以下の 特徴が有ります。
・浄土宗では誉号をつくりZZとYYとの間、あるいはYYの代わりにW誉という字が入ることが多い。
・浄土真宗は戒が無いので戒名もない。そこで釈XXという法名を使う。
・日蓮宗では日蓮にちなんで日号を作った、通常はXX日信士のようになっている。
・天台宗、真言宗、禅宗等は基本形をそのまま使用しています。
意味を申し上げれば、院号は建物を示します。ZZ院、ZZ院殿、ZZ軒、ZZ 庵等ですが現在ではZZ院が一般的です。道号は現世における地位、特技、性格 を示す漢字2文字です。戒名は成仏後の名前になり、漢字2文字です。位号は仏 教に対する帰依心のステージ(段階)を示します。帰依心が強い場合に居士(男) ・大姉(女)、一般の信者は信士・信女、子供の場合童子・童女、幼児の場合幼 児・幼女、生まれて間もない場合嬰子、生まれていない場合には水子になります。
死者の宗派がわからない場合は戒名はどうすればよいのでしょうか?
亡くなった方の菩提寺が必ずどこかに有るはずです。新世帯で菩提寺が亡い場 合には、亡くなった方が信仰していた宗派が良いでしょう。それも判らない場合 には、あなたご自身が良いと思う宗派(寺院)で戒名を授けてもらうのが良いと 思います。それも無ければ、バーチャル寺院:善照寺でも結構です。
お葬式ってなんですか、お葬式って何故やらなくてはいけないのですか?
お葬式は死者を弔うための儀式です。その時まで息をしていた人が、臨終を迎 え人間としての実体(リアルな)は無くなる訳です。これは大変な変化であり大 きな感情的・心理的影響をもたらします。存在していたものが無くなるわけで、 昨日まで語りかけていた人がもう頷いてくれなくなるのです。このような変化に 対処するために生きている人間に対して「いやし」の儀式、事態を画するための イベントが必要です。これがお葬式です。
お葬式は、宗教を越え、宗派を越えた人間としての行為です。だから、お葬式 は絶対行うべきです。浄土宗では阿弥陀様のお力によって、死者は極楽浄土とい う世界に生まれ変わります。その儀式を執り行うのが僧侶です。この儀式を行え ば必ず、絶対に極楽へ送り届けることができます。そう考えることが信仰という ものです。
最近は信仰もないのに儀式として葬式を営むことがあるかと思います。しかし、 このような場合でもお葬式は営むべきです。無くなった方の遺言で葬儀をしない 場合も見受けられます。しかし、遺言を破ってもお葬式を行うべきです。葬儀は 亡くなった方のものではなく、後に残された死者に関係する全ての人のためのも のです。葬儀の方法はご自由ですが、なるべく生前関係のあった人を大勢集めて 別れの儀式を営むべきだと思います。
知り合いの奥さんが、新しい宗教を信仰したら不治の病が治ったと言って入信 を勧めます。どうしたら良いでしょうか?
多くの場合、宗教には奇蹟が求められます。超能力という言葉も魅力的な言葉 です。しかし、奇蹟を求めるのは間違いです。奇蹟は実際には起きないから奇蹟 であって、これを御利益として吹聴する宗教は多くの場合詐欺的です。注意しましょう。
全く勉強をしないで、仏様にお願いして試験に合格できると思いますか。はっ きりいって合格できません。末期癌であと1年と宣告され、治療を止めて信仰生 活に入ることも有りますが、これによって癌が治るのではなく死に直面した自分 を見つめることが出来るようになるのです。為すべきことをなしそして仏様に心 の落ちつきを求める、これが正しい信仰であり、決して奇蹟を求めることでは有 りません。
困ったことが有ったらお近くのお寺を訪ねて下さい。お近くにお寺が無かった ら、当バーチャル寺院:善照寺をご利用下さい。
死後の世界はあるのでしょうか。人間は死んだらどうなるのでしょうか?
あるお釈迦様の弟子が、「人間は死んだらどうなるのでしょうか」とお釈迦様 に訊ねました。その時お釈迦様は只、黙って何も返事をしなかったそうです。後 でその理由を聞くと「こたえの無いものは考える必要もない、応える必要もない、 そんなことを考えるより修行に励め」とおっしゃったそうです。
しかし、この回答で全ての人が満足するわけではありません。そこでお釈迦様 は浄土という仏様の国の話を我々に残してくれました。六道輪廻という言葉があ ります。我々が生活している人間界を含めて6つの世界がある。天界、人間界、 阿修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界です。仏の浄土に行かない限り、この6つの 世界を巡りさまよう(輪廻転生)とされています。そこで、悪いことをすると死 後に地獄に落ちるといった考え方が一般的に流布されるようになりました。しか し、私の考えでは生きている人間の心の中に六道があるのです。ある時は天人の ような人が、餓鬼のように食べ物を貪ったり、ある時は戦闘的になって阿修羅に なったり、ある時は畜生のようにあさましくなったりするのです。しかし、死後 の世界は仏の世界に迎えられるのですからもはや輪廻転生することは無いのです。
お釈迦様は死後の世界として、無智な我々のために極楽浄土という仏様の国を 与えて下さったのです。だから、我々はこれを信ずるだけです。本当ですか和尚 さんといわれても、私はそう信じています。それが信仰というものです。信じて いるが故に、本当に浄土に往生することが出来るのです。