浄土宗 善照寺

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科学技術と宗教について (平成11年度ソーダ工業技術研究会1999.10発表)

平成11年度ソーダ工業技術研究会(平成11年10月7日、化学会館)
科学技術と宗教について
早稲田大学講師 今岡達雄

はじめに
 科学技術と宗教というテーマでの講演は大変気の重いものです。というのは、この問題は確立した学問領域が有るわけでもなく、多くの見解が示されていてもその多くは科学技術側、あるいは宗教側に立つ人々によって一方的に述べられた著作であり、両者を対等に見ることができる視点に立った言説が少ないことにあります。
 私は大学で理科系学部の講師をしていますが、本来は僧侶であり週7日のうち寺院の住職として過ごしています。以前は㈱三菱総合研究所で技術予測の専門家として先端的科学技術動向を研究対象としておりましたが、現在でも週1日は専門研究員として関与しています。このような立場に身を置いているからこそ、何か気の利いたことを話さなければというプレッシャーが加わり、大変気の重い講演になるわけです。

科学技術の位置づけ
 「科学技術と宗教」というテーマで語るには、まず科学技術というものをどの様に考えているかの認識を明らかにすることが必要と思います。「科学技術」という言葉は特殊な言葉です。一般的に良く使われていますが、国語辞典にも英語辞典にも該当する言葉がありません。「科学」と「技術」を合成した言葉で本来は「科学・技術」と書くべきもので、英語では「Science and Technology」となるべきものです。ですから科学技術といっても意味するところは明確でなく、科学と技術に分けて認識すべきものです。
 「科学」とは世界(自然)に関する論証可能な知見でありまして、大部分は数学や定義された記号を言語として記述され、一度確立された知見は蓄積され新しい知見が付加されていきます。つまり、「科学」とは世界構造(自然)に対する知識の集積でありまして、「一体どうなっているの」という知的探求心に応える知識の集積であります。一方、「技術」とは自然の事物を改変・加工して人間活動に利用する方法論的知識であります。「科学」の知見を応用した方法もありますし、「科学」的な裏付けはないが経験的に獲得された知識も「技術」の重要な部分を占めています。「どうなっているのかは解らないが上手く働く」というのが「技術」を特徴づける言葉のような気がしますが、近年は「科学」による知見から「技術」が生み出されることが多くなり「科学技術」という言葉が頻繁に使われるようになってきたものと考えられます。
 人間の行動論的に考えると「科学」とは知識欲の探求の結果、「技術」とは物欲の探求の方法と位置づけられると思います。現在では科学や技術に関する哲学的思考も一つの学問領域となっており「科学論」「技術論」として論文が発表されています。典型的な見解は「科学は中立的であり、その応用(技術)によって善にも悪にもなる」とされていますが、近年のように技術的応用を目的として科学的研究が行われる時代にあっては、「科学」は単に知識欲ばかりではなく、物欲探求の手段になっています。昨今のような競争指向は短期的な結果が期待される「技術」とその技術進歩に貢献する「科学」領域への研究集中をもたらしますから、「科学」研究も現代社会の進んでいる方向を強化する方向にしか進まないことになります。つまり、現代の「科学・技術」は物欲を拡大する方向にしか進まない構造になっていることを指摘しておきたいと思います。

科学と宗教の接点
 宗教とは極めて多層的な概念で、私には皆様に明確な定義をお示しする能力がありません。駅前でビラ配りをしているのも宗教ですし、荘厳な施設で伝統的な儀式を行うもの宗教ですし、呪術的な方法で病気を治すのも宗教ですし、地域紛争の原因の一つになっているのも宗教です。このように宗教は世界の人々に大変大きな影響力を持っていることは確かですが、その宗教を一口で説明することは大変難しいことです。しかし、多くの宗教に共通する点は「自分を取り巻く世界への関心」と「自己自身の意味づけ(生きていく意味づけ)」に解答を示していることにあると思います。つまり、自分自身と自己をとりまく周囲の世界構造の理解という人間の根元的な疑問に回答を与えるものであり、その回答を認めることが信仰である訳です。
 このようなの根元的な疑問に対応するのが「科学」であります。「科学」は世界に関する関心を満たす方法として「宗教」と共通の関心領域を持っています。そして、「宗教」における世界構造への関心は「科学」によって裏付けが行われてきました。しかし、近年の「科学」の急速な知識量の拡大は「宗教」の立場を危うくするような場面、「地動説」、「自然淘汰」、「DNA」を生み出してきました。しかし、なお、「科学」の未知の部分は多く、このような世界構造を創造した「神」の支配する領域は厳然として有効と考えられています。また、自己の存在理由にかんしては「科学」は少しの寄与しか果たしていません。

技術と宗教の接点
 私どもの日常的生活ではこのような根元的疑問に悩みながら生きている訳ではありません。それよりも明日の食べ物の確保、目前の仕事の処理に追われて生活しています。いかに食べ物を確保し、いかに仕事を処理するかが第一の関心事です。そして宗教を中心とした共同体ではそこにも解決の方法を与えています。宗教的規範に従った基本的な生活スタイル(行動様式)を提示し、衣食住から教育、医療、商取引に至るまで社会生活(共同体での生活)の全般にわたって、疑問をいだかずに行う方法が提示されているのです。
 このような生活行動様式に関連するのが「技術」であります。「技術」は物的欲求の実現手段であり、欲求は果てしなく膨張し宗教的規範によって取り決められていた生活スタイルの範囲を簡単に逸脱してしまいます。「技術」は自然界に存在しない物質を大量に創り出しますし、手に余るエネルギーを生み出しています。「技術」が「科学」よりも私どもの生活に密着しているが故に宗教的な行動様式との接点が多く、摩擦も多く生み出しています。例えば、臓器移植という治療方法が具体的に行われなかったならば、脳死という概念も検討する必然性はありませんでした。免疫機構という人間個体の保護機能の解明という「科学」知識は、免疫機構を抑制する物質という「技術」を生みだし、自己組織以外の組織を自己体内で働かせることを可能にしました。一個体の存続という欲求が死の概念変革を迫っているというのが脳死の問題であります。これは、「自己自身の意味づけ(生きていく意味づけ)」に関わる問題ですから、科学や技術の問題ではなく宗教の問題であるべきです。生命倫理の問題として科学者や技術者(医師を含む)、官僚、有識者が話し合うべき問題ではなく、各宗教がその見解を示すべき問題です。
 もう一つの「技術」と「宗教」の接点は、技術進展による生活水準の向上です。近代文明は人間の物質的欲求を、技術革新の成果を取り入れ大量の資源を消費することによって可能にしました。この結果、近代文明は人間生活から多くの苦痛を取り除く事に成功しました。基本的な欲求である衣食住ばかりでなく、物質消費の選択の自由を拡大しましたし、時間的な自由度も大きく拡大され、余暇(自由裁量時間)の過ごし方にも多様な方法が与えられるようになりました。苦痛からの解放は「宗教」への依存の程度にも大きな変化をもたらし、日常的な活動における宗教への依存度、つまり、宗教的な規範に依存して解決すべき問題は表面的には減少の一途をたどっているように見えます。このような宗教的規範への依存度の減少は、宗教が果たしていた「自己自身の意味づけ(生きていく意味づけ)」までも捨て去ることになり、その結果、多くの生きる目的を見出せない人々を生み出すことにもなっているようです。「技術」は人間に生きる手段を与えるが、自己自身の意味づけは与えない。現代人は生きる手段を重視するが故に、生きる意味を捨て去りつつある。これが「技術」と「宗教」の第2の接点であります。

宗教に対する西欧文明と日本文化の違い
 堅苦しい話は止めてちょっと歴史を繙いてみましょう。一般的に言いまして科学や技術の歴史を考えるとほとんどが西欧の歴史中心に捉えています。主なる発明や発見を思い浮かべても、その時代認識は西暦で捉えられており、日本の歴史の中でどのような時代にあったかは直感的には分かりません。例えば、ワットが蒸気機関を発明しましたのは1774年ですが、これは江戸時代の安永年間、江戸中期となります。また、有名なニュートンがどの時代かと言いますと、元禄の人となります。日本の時代感覚でいくと、明治時代くらいでもいいような気がすると思うのですが、ニュートンは実に江戸初期で、5代目将軍徳川綱吉の時代です。江戸中期にあたる時期に西欧では万有引力の法則や微分積分が考えられていたのに、日本では髷を結って、刀を差し、生類あわれみの令によって人間が処刑されていたわけです。どうして、このような差がでてきてしまったのかと申しますと、そこには宗教的な背景が有るわけです。
 西欧文明の源流をなすのはキリスト教です。キリスト教という宗教は、神がすべてを決めて、この世の中や自然すべてを神様が造ったもの、神様の創造物で、その中で私たちが生きているという世界観があります。これは旧約聖書の考え方ですから、旧約聖書を基本としているユダヤ教、キリスト教、イスラム教も同じ世界観を共有しています。旧約聖書に「創世記」という部分があって、そこに神様がこのようにして世界を造りましたという記述があります。アダムとイブの話があるのもこの「創世記」の部分で、創造を開始してから7日目に神様がお休みを取りましたので、その日を安息日という仕事をしない日にしたのです。世界の4大宗教といえばユダヤ教、キリスト教、イスラム教と仏教ですが、そのうち3つの宗教は同じ旧約聖書を基盤としています。
 その考え方の基本は決定論的です。それは神が決めて創り出した物ですから神に意志を深く考えれば解析可能と考えます。つまり、物事は解析すれば分かって数式でかけという考え方です。だから、いろいろなものを調べてどんどん記録して、記録の中から規則性を見つけだして法則性を発見し、その知識をどんどんため込むというのが彼らの方法論です。それは神の意志の理解につながる行為です。アインシュタインが一般相対性理論を美しい形をした数式として生みだしたことや神はサイコロを振らないと言って量子論を非難したことは有名ですが、その根幹には神によって生み出された調和した美しい構造を明らかにするという意図を読みとることが出来ます。
 これに対して仏教は「縁起」です。絶対者が構造を創造したのではなく、この世の構造を因果関係として捉えます。彼ありて此あり、原因があって結果があるというのが仏教の基本思想です。そして、原因には自律的原因(自己の意志決定による原因:因)と他律的原因(自分では決定することの出来ない環境条件:縁)があり、結果は多義的に決定されるという考え方です。因縁といいます。そして、この因縁論は世の中が因縁で成り立っていることを理解し、何が起こっても心が動かされないような強い自己を作り上げることが目標です。したがって、個々の事象を蓄積し解析し法則性を見いだす努力は積極的には行われませんでした。何故ならその法則性は既に明らかにされています。つまり、この世は縁起によって成り立っているということが結論です。
 一口に宗教といっても西欧の宗教と東洋の宗教では自然や世界構造に関する態度が全く異なるわけで、そのことが科学や技術に対応する方向の根本的違いを生みだしていると思います。

仏教について
 ついでですから、仏教についてもう少し詳しくお話しします。釈迦は悟りを開いた後の最初の説法で4つの真理(四諦)を説いたとされています。第1は「苦諦:この世は苦しみ悲しみに満ちている」、第2に「集諦:その原因が欲望と我執にある」、第3に「滅諦:欲望や我執を克服することによって涅槃に至る」、第4に「道諦:そのためには8つの生活方法(八正道)がある」ことを示しました。そして、欲望や我執が苦の原因であること、それを滅すれば涅槃に至ることを12の事象の因縁論で説明したのです。ですから仏教は四諦、八正道、十二因縁が基本であるといわれるのです。
私どもの日常には苦しいこと悲しいことがいっぱいあります。もう苦痛だらけといっても良いくらいです。これを一切皆苦、四苦八苦といいます。「四苦」とは生・老・病・死です。産道を通って生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気になること、そして死ぬ苦しみです。生まれてきたときのことは、通常は覚えていませんが大変な苦しみだそうです。病気の時は確かに苦しいのですが、直ってしまうとケロッと忘れてしまいますから同じようなものかも知れません。歳を取るのはだんだんと年齢を重ねていきます、それまでは年齢を意識することはありませんが、ある日突然動けなくなります。そして死の恐怖があります。これらが「四苦」であります。加えて「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」の四つの苦があります。愛する人と別れなければならない苦、憎んでいる人と会わなければならない苦、求めても得られない苦、身体の感覚器官の刺激による苦痛です。先程の四苦とあわせて「四苦八苦」と言います。
この「四苦八苦」から逃れるにはどうしたらよいかということになりますが、この問題意識は世界の宗教に共通するものです。つまり、私どもの生活を苦しいものだと捉えているのです。実際、楽なことばかりではありませんし、楽しいことばかりでもありません。けっこう、苦しいこと悲しいこと不条理なことがいっぱいあるわけでです。これらを乗り越えて、生き生きと生きていくためにはどうしたらよいのかというのが宗教です。毎日苦しいけれど、「苦しい苦しい」と文句ばかり言ってもしかたがないので、ちゃんと生き生きと毎日生きていかなければいけない。生きていくために必要なことというか、人類が編み出した方法を宗教と呼んでいるのだと思います。
この苦に対してどの様な態度で接するかと申しますと、キリスト教的な考え方では、何と言ってもすべてのものは神が造られたものですから、苦しみも神がお造りになったものです。苦しみは神が与えた試練です。ですから神の意志を知って、神はなぜ我々に苦しみを与えたもうたかといって、では「神様がこう考えているのだから俺たちはこうしよう」というのがキリスト教的考え方です。その思考過程や対応方法、結果は記録され集積されて知識となります。避ける方法がない場合には、与えられた試練ですから喜んで受けなければいけません。
一方、仏教的にはどのように考えるかと申しますと、苦しみが欲望や我執(自分自身への特別視)から起こるのです。欲しいと思ったり、あいつとは会いたくないと思うのは、欲望なのです。その欲があるから苦が起こります。だから欲をなくせば良いではないかというのが仏教的考え方です。欲をなくすことは簡単です。因果律「彼あれば此あり」というのが仏教の基本的思考方法です。苦から逃れるには苦の原因となっているものを滅すれば良いのです。苦はどこから起きるというと欲があるから起こるので、欲を縮小していきましょうというのが仏教的考え方です。欲がなくなりますと心が平静な状態になりまして、「涅槃」という状態になるのです。この「涅槃」という心の状態になって人を「佛」と言います。「佛」というのは阿弥陀仏とか大日如来、観音菩薩だとか、色々聞いている仏様だと思っていたら、仏教の「佛」というのは想ではないのです。大間違いで、涅槃に至った人が仏教で言う覚者(悟りを開いた人)で覚者をインド語でブッダ(佛陀)というのです。

現代人と宗教について
 それでは現代社会において宗教は機能しているのでしょうか。皆様にあなたはどの宗教を信じていますかと質問した場合、「私の宗教は仏教です。」とか、「私の宗教はキリスト教です。」と手を挙げるひとはほとんどいないのではないでしょうか。一般の人を対象にしたアンケート調査で「あなたは宗教を持っていますか」と聞くと、大体4分の1の人は「宗教を持っています」と答えます。では「あなたはその宗教のために何をしていますか」とたずねると、「お墓にお参りにいっています」「お父さん、お母さんの供養をちゃんとしています」と答えますが、「私は阿弥陀仏を信じています」という人は、ほとんど皆無に近いのです。神や仏に対する信仰になると、日本人はほとんど信仰を持っていないのです。
 しかし、「苦」は厳然と存在しますから、その「苦」をどうするかということになります。この「苦」というものは欲から起こります。欲というのは、現代の言葉で言い換えるとニーズということです。現代社会において人々のニーズを満たすものは「技術」であります。現代社会では、苦の忌避、苦をなるべく少なくしようとして科学技術(技術の源泉である科学も含めて)に頼っていることになります。怪我を治すとか、もっと長生きするようにと医療の技術がどんどん発展しているわけです。
 また、私たちの生活スタイルはどうかと言いますと、苦しみを自分の生活圏内から遠ざけることが行われています。例えば、家の中に苦しんでいる人がいると、その苦しんでいる様子を見るのも苦痛ですから病院に入院させます。自分一人で生活が出来ない高齢の方がいると、その面倒を見ながら働くのは大変ですから介護施設に送ります。そして、家庭内は苦痛の見えない平常の状況になります。要するに自分が苦しいのも、人が苦しんでいるのも見たくないわけです。そのようなものをどんどん除いていって、あたかも自分の周囲にはそんなものが存在しないような装いをもって毎日を暮らして行くわけです。また、科学技術の力を借りて、実際に労力のかかること危険なこと苦痛のあることをどんどん減らしていって、「この世の中に苦痛なんてありはしない」という雰囲気の中で生きていくのが一番良いと思っているよう見えます。
 ところが苦痛というものは忘れたときに突然、降って湧いたように姿を現します。そして途方にくれるわけです。最近、新聞を見てびっくりしたのですが、1997年の自殺者は3万人になるそうです。交通事故でなくなる方が約1万人ですからその3倍です。男性が2万人で女性が1万人です。最近では特に中高年齢層、団塊の世代の自殺者が急増しているそうです。それもリストラされて、人生の目的を失って、「ああ、俺は生きていてもしょうがない」と思い込み、うつの状態になってしまい、心が抑え込まれてしまう、うつ病性自殺者が多いとのことです。ある推計によりますと、3万人の自殺者がいるということは、自殺を試みた人はその5倍の15万人になるそうです。実行に移す人が15万人いて、更にその背後には自殺願望者が10倍の150万人にもなるそうです。これは100人に1人の割合で真剣に自殺を考えている人がいるということになります。日常生活で「苦しみ」なんて自分の生活の圏外にあるものだと思っていたものが、自分の身に「苦しみ」が降りかかってくると、もうどうしようもなくなってしまうのです。そして、死を選んでしまうことになります。
 苦しみに向き合って生きることを選択し、苦しみを克服する方法として自分自身を見つめ直し、生きていくことの目的を探しながら生活していくことが宗教的生き方です。我が国の社会生活は、科学技術の成果に頼った「苦しみを忌避した生活スタイル」を選択し、苦しみを生活の圏外に追いやることで心の安定を得ていますが、欲望有る限り苦しみはついて回るものですから実は避けることの出来ない事なのです。

佛の意味について
 「佛」という文字は「にんべん」に「弗(ふつ)」と書きます。「弗」という文字はフツ、フツという音を示すと同時に「非」という意味があるそうです。「さんずい」で書きますと「沸騰」の「沸」という文字になり、「水に非ず」と言う意味になり蒸気になることを示しています。「佛」という文字も同様に、「人に非ず」という意味になります。なぜ人ではないのかと申しますと、自分の努力で「欲」を最小化し、心の平静を実現した人だからです。もう「人」と呼ぶには尊すぎますから、人にあらずと書いて「佛」という言葉を造ったのです。
 その状態に達するために、自分の力で行うか、他人の力を借りて達するのかという話になります。「佛」に成るには大きく分けて2つの方法があります。自分の力で「佛」に成るのが「自力」であり、既に佛になった人の力を借りて「佛」に成るのが「他力」という方法です。「山川草木皆有仏性」という言葉があります。人間ばかりでなく草木や山川まで全て佛になる可能性を秘めているという考え方です。人で考えてみると、人の中心には佛としての性質が内包されております。しかしながら、その周囲は欲で取り囲まれています。そこで、欲の皮を一枚一枚剥ぎ取っていくと、本来秘められていた仏性が現れ「佛」になることが出来るのです。ですから、一生懸命努力して佛になろうとする、これが自力と言う方法です。禅宗がそうです。一生懸命座って、皮をゆっくり剥いでいきます。
 ところが、私のように欲にまみれた者は、欲を捨て去ることが出来ません。自分の力で佛になることはとても無理ですから、先輩の仏様の力にすがるのです。これが他力という方法です。特に仏様の中には他の人々を助けることを誓って仏様になった人がおります。この誓いを「本願」と呼んでいます。他力本願とは、他人の力を当てにすることではなく、仏様の誓いに頼って佛になる方法を意味しています。一度悟りの境地に至り佛になった方は永遠の存在で、他の人を助ける力(慈悲の力)が備わります。釈迦は悟りを開き、その悟りを多くの人に語ることによって人々に佛になる道を広く知らしめました。これが釈迦佛の慈悲の力であり、その永遠性は仏教として今も有効性を持っています。
 私は浄土宗の僧侶です。浄土宗では「南無阿弥陀仏」ともうしますが、多くの人は「南無阿弥陀仏」という言葉の意味を知りません。佛となったものは永遠の存在です。永遠と言うことは測ることが出来ないと言うことです。測ることが出来ないと言うことを古代インド語で「アミータ」と言います。「ミータ」はメーターと言うことがと同じ語源で「測る」と言うことを意味します。「ア」は否定を意味する前置詞であり、「アミータ」とは測ることが出来ないという意味になります。「ブッダ」は覚者(覚った者)の意味であり、「佛」と同義語です。「永遠の佛」これが「アミータ・ブッダ」です。
 全てをささげ帰依することを古代インド語で「ナーモ」と言います。現在のインドでの挨拶の言葉は「ナマステ」と言いますが、これは「あなたに帰依します」という意味です。インドの人々は毎日の挨拶として「あなたに帰依します」と言っているわけですが、これは「ナーモ」と同じ意味です。「永遠の佛に帰依します」ということを古代インド語で「ナーモ・アミターバ・ブッダ」と言います。これを音訳したのが「南無阿弥陀仏」です。「南無阿弥陀仏」というと、いまどき辛気くさいと言われそうですが、「永遠の佛におすがりします」と言うことですから、自分自身の力ではなかなか佛の境地に至ることが出来ないので、既に佛になった方の慈悲の力にすがって佛にさせていただくことにして、毎日を楽しく生き生きと過ごしていこうということになります。

おわりに
 よく皆さんから、「科学技術は欲を満たすための活動であり、お坊さんは欲を滅することを目標としているのに、今岡さんはよく両立出来ますね」と質問されます。その時、「私は他力で良かった」と思うのです。欲望肯定派です。私たちはもう欲を滅するなんて自分の力ではできません。ですから、世の中の便利なものは何でも使ってしまって、なおかつ永遠なる存在によろしくお願いしますとご挨拶して毎日を過ごしているのです。
 「欲」は人間の苦痛の源泉であると同時に、進歩の原動力でもあります。進歩とは昨日と違う明日があると言うことで「希望」を生み出します。「希望」は人間が生きていくために必要なものです。宗教は「欲」を否定しませんが、節度有る「欲」を要請します。これこそが人間の智慧と言うものではないでしょうか。

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